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災害支援

つながろう co-op アクション

活動報告

80件中 26~30件目(6ページ目)を表示しています。

2018-08-20 被災地のいま55
2018-07-02 被災地のいま54
2018-06-04 被災地のいま53
2018-05-07 被災地のいま52
2018-04-09 被災地のいま51

被災地のいま552018-08-20

被災地で起業して7年「事業体としてもっと強くならなければならない」

7年前、被災地で起業による地域再生を目指した人たちがいます。農水産物の六次化、コミュニティ形成といったそれらの事業は、震災で浮彫りになった過疎化や高齢化、経済縮小など地域の喫緊の課題と深く関わるものばかりでした。

震災前から女川町のまちづくりに関わっていた湯浅輝樹さんは、被災後の女川の惨状を見て絶句しました。「働く場所を失った漁業者はこの先どうなるのだろう。何か、新たな仕事をつくり出さなければならないと思った」と当時をふり返ります。

4月、湯浅さんは仙台の木工クリエイターと一緒に、女川で「小さな復興プロジェクト」を立ち上げました。借りた倉庫に木工機械と原材料を持ち込んで地元の人を雇用し、魚の形の木工品「onagawa fish(女川フィッシュ)」を作って販売したのです。震災直後の起業は明るい話題としてメディアに採り上げられ、商品は飛ぶように売れました。作り手は被災した人たち。「買ってもらうと勇気が湧く」と喜び合ったそうです。

被災地で生まれた復興商品の多くはいま、“支援”から“ニーズ”へと局面が変わりつつあります。「一部の方々は現在も応援の気持ちで購入してくださっているが、一方でどんなに良いモノを作ってもニーズが無ければ商品は売れない。いまそこで苦労している」と話します。

人々から震災の記憶が薄れ、復興が進むにつれて、厳しい状況に直面することも増えました。「女川町のまちづくりに覚悟を持ってのぞんでいる」という湯浅さん。社名「株式会社onagawa factory(女川ファクトリー)」には、木工品・革製品・食品のものづくりで新しい女川の文化を発信していくとの思いが込められています。「厳しい状況は続くが、このまちに事業を残していくには、事業体としてもっと強くならなければならない」と決意を新たにしています。



被災地のいま542018-07-02

職場で一緒に子育てができるから、安心して赤ちゃんを産むことができた

震災で、沿岸部は人口減少が加速しました。気仙沼市では震災前年より人口が8572人減少し(※)、少子化が一層深刻さを増しました。

「子どもの数が少ないので親同士がつながる機会も少ない。特に震災直後は母親が育児で孤立しがちだった」。そう話すのは、気仙沼市のNPO法人ピースジャムの代表、佐藤賢さんです。佐藤さんたちは震災発生翌日から乳幼児を持つ母親へ、ミルク・オムツなどを届ける活動を始めました。日々生きることで精一杯だった母親たちに変化が見えてきたのは、5月頃です。「“夫が震災で離職した。自分が働きたいが働ける所がない”“子どもを預けないと働きに出られない”“将来、この子をどうやって育てていったらいいのだろう”といったように、子育てと就業に関する悩みが多くなりました」。母親たちの不安は地域の育児コミュニティが十分に整っていないことの証でした。

佐藤さんたちは「お母さんたちが一緒に子育てしながら働くことができるような場所をつくろう」と考え、公民館の一室をキッズルームにして、地場の野菜・果物を原料にしたジャム製造・販売事業に乗り出しました。翌年にはロンドンからの支援で知った子育て万能布ベビーモスリンの縫製も開始。さらに2014年にはジャム製造室と縫製室、キッズルームを備えた新工房を建設し、子連れで働ける環境を充実させました。働き方はゆるやかで勤務シフトは子育ての状況に合わせて自分で決めます。

ピースジャムでは7年間で15人の赤ちゃん誕生を祝いました。母親たちは、安心して産むことができた理由を、“ピースジャムには先輩ママもいれば初産のママもいて互いに頼りあえる。子どもの成長を職場のみんなで見守っていけるから”と話すそうです。

「ピースジャムで働きたいと待機しているお母さんたちは20名ぐらいいるのですが、売上の規模が小さいので今は雇用を増やすことができません」と佐藤さんは言います。

復興支援を目的にした被災地の商品購入は年々少なくなっています。事業運営に厳しい状況が続くなか、佐藤さんは「ジャムもベビーモスリンもきちんと流通に乗せ、売上を増やしてお母さんたちの雇用拡大につなげたい」と意欲を見せます。

※2015年国勢調査



被災地のいま532018-06-04

復興公営住宅、家賃上昇に不安

「家賃を払いきれないようになったら、恥ずかしがらずに生活保護の手続きをした方がいいですよ」。石巻市のぞみ野第二町内会長の増田敬さんは、住民にそう話すことがあります。

復興公営住宅の入居者のうち政令月収(※1)8万円以下の低所得世帯は、国の「家賃低減事業」で家賃が低く抑えられています。5年間は少ない負担で住むことができますが、6年目から少しずつ上がり、11年目には一般の公営住宅と同じになります。

宮城県の復興公営住宅入居世帯のうち約7割は政令月収8万円以下の低所得世帯で、その多くは高齢者です。

「石巻市の場合、政令月収0円の人の家賃は当初6,700円で11年目以降は約3倍になります(※2)。今はまだ実感できませんが、収入の少ない高齢者が安心して入っていられる状況にありません」。

また、災害などで財産を失った時に適用される「雑損控除」も期限(東日本大震災は特例で5年)があります。雑損控除が無くなると政令月収が上がり、家賃にも影響します。

復興公営住宅は、被災した人たちにとってようやく落ち着いた“安住の地”です。のぞみ野第二町内会は生活困窮世帯の町内会費を免除したり、家賃の問題も気軽に相談できるよう顔なじみの関係を増やしたり、互いに支え合うコミュニティづくりに取り組んでいます。

「家賃を払えずに復興公営住宅を出ていく人が多くなれば、それだけで社会問題になるでしょう。特に高齢者は民間アパートに入るのが難しいので、ここを出たら本当に困ると思います。私たちも、家賃上昇に備えて生活設計を立てようと話し合っていますが、行政には低所得世帯も安心して住み続けられる施策を考えてほしいです」。(※3)

被災自治体は家賃低減事業の延長を国に要望していますが、復興庁は「家賃補助は自治体ごとに対応が可能」として予定通り10年で事業を終了する予定です。長い避難生活を経て復興公営住宅に入居した人たちが、再び“安住の地探し”をしなくて済むよう、早急に知恵を絞ることが求められています。

※1 世帯全員の1年間の所得の合計から公営住宅法上の控除を行なった額を12カ月で割った収入。
※2 2017年12月25日時点の試算。石巻市の復興公営住宅1LDKで11年目も政令月収0円の場合。
※3 2018年1月、石巻市は独自に低減期間を20年まで延長する方針を固めました。



被災地のいま522018-05-07

仮設住宅で転居を待つ日々

2018年3月で震災発生から7年が経とうとしています。2年で供与が終わるはずの仮設住宅も、復興公営住宅などの建設工事の遅れから、7年、8年と入居期間が延びました。

長い避難生活は自ら望んだものではありません。名取市箱塚屋敷団地仮設住宅(以下、箱塚屋敷団地)の渡辺喜美子さんは、初対面の相手から「家賃が無料だからまだ仮設住宅にいるんだろう」と言われ、体調を壊すほどのショックを受けました。復興公営住宅の抽選に当たったのは最近です。早く引越ししたくても、建物が完成するまでは仮設住宅に住み続けざるを得ません。事情を知らない人からの心無い言葉もありましたが、「いまは7年間の荷物を整理しながら楽しく過ごしています」と笑顔を見せます。

同じ団地に住む渡部あき子さんも、復興公営住宅への入居を申し込みました。海の近くを嫌がる家族の心情を汲みつつも、「そこに行くしかない」と決断した胸中を明かします。津波で自宅を失った悔しさ、思い出のつまった家を愛おしむ気持ちが消えることはありませんが、まずは家族の将来を考えなければなりません。「家を建てるのはもう無理だと思って復興公営住宅に入ることを決めました」と淡々とした口調で話します。

箱塚屋敷団地は今年の春に閉鎖される予定です。入居者は市内2カ所に集約される仮設住宅に再び転居して、復興公営住宅などの完成を待ちます。

箱塚屋敷団地自治会長の阿部ひでさんは、「かつては180世帯が暮らしていましたが、いま居るのは27世帯。自治会長として最後まで残って、ここの閉鎖を見届けるつもりです」と言います。次の転居先もまた仮設住宅ですが、「移ってからゆっくり自宅の建築業者さんを決めようと思っている」と話してくれました。

現在、宮城県内の仮設住宅に住む人は9,750人(※)。ピーク時の11万3千人から大幅に減ったとは言え、大勢の人が仮の住まいで暮らしていることに変わりはありません。特にプレハブ仮設住宅は老朽化が激しく、健康への影響も心配されています。仮設住宅の供与終了まであと2年。それぞれの思いを胸に、恒久住宅への転居を待つ日々が続きます。

※仮設住宅の入居状況(宮城県・2017年10月31日現在)。



被災地のいま512018-04-09

住民による見守り活動で安心をつくる

阪神・淡路大震災では、仮設住宅や復興公営住宅で誰にも看取られず亡くなり、しばらく経った後に発見される「孤立死」(※1)が社会問題になりました。2010年版高齢社会白書には孤立死は「生存中の孤立状態が死によって表面化したもの」との記述があります(※2)。家族や友人・隣人との接触がない、行政サービスともつながっていないなど、社会的に孤立している高齢者は少なくありません。

東日本大震災発生からもうじき7年、復興公営住宅では、高齢の単身世帯などが地域社会から孤立してしまうことがないよう、様々な取り組みがなされています。
仙台市は「復興公営住宅ワーキング」において、市・区役所関係課や社会福祉協議会などと個々の世帯の戸別訪問、保健福祉サービスの提供などについて支援方針を調整するとともに、コミュニティづくりについても連携して取り組んでいます。

コミュニティソーシャルワーカーの大久保環さん(仙台市社会福祉協議会太白区事務所)は、住民主体の見守り活動や交流活動の支援にあたってきました。「復興公営住宅の入居者が、そこの地域の住民となってコミュニティを形成し、見守りも交流もある程度住民の手でできるようになるまで支援することが、私たちの役目」と話します。

地域で見守り活動を担う福祉委員(ボランティア)は、その一例です。鹿野復興公営住宅では現在3人の福祉委員が月1回、高齢の一人暮らしの入居者を訪問しています。

「玄関先で“変わりありませんか”と声をかけたり、お喋りしたり、いろいろですが、何か変わった事があれば地域包括センターや民生委員さんにつなぎます」と小野寺桂子さん。「訪問が無くても大丈夫」と言われた場合は、散歩や買い物で会った時に様子を伺うなど、入居者の気持ちに添った緩やかな見守りを続けています。「最近は、住民の皆さんも高齢の一人暮らしの方のことを気に掛け、“姿が見えないので心配”“先日会ったので大丈夫”などと、さり気なく見守りをしてくれるようになりました」と話します。

困ったことが起きた時すぐ相談できる相手がいるコミュニティは、孤立リスクの高い高齢単身世帯に限らず、どの住民にとっても安心の材料です。見守り活動は人とコミュニティ、人と行政サービスをつなぐ役目を果たすと同時に、地域の安心もつくっているのです。

※1現在、孤立死(孤独死)に明確な定義はありませんが、ここでは一般的な見方に従いました。
※2「第1章/第3節高齢者の社会的孤立と地域社会」(2010年版高齢社会白書:内閣府)