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災害支援

つながろう co-op アクション

活動報告

80件中 16~20件目(4ページ目)を表示しています。

2019-04-08 被災地はいま65
2019-03-20 被災地はいま64
2019-03-07 被災地はいま63
2019-01-17 被災地はいま62
2019-01-16 被災地はいま61

被災地はいま652019-04-08

「亘理町の文化から生まれた手作り雑貨。ビジネスとして長く続けていきたい」

株式会社 WATALIS
亘理町は町面積の約半分が浸水し、8万人が避難しました。震災から数カ月後、引地恵さんは町内でコミュニティづくりのためのワークショップを始めました。

亘理町には着物の残り布でつくった巾着袋にお米などを入れて感謝を伝える返礼の文化があります。引地さんは、その巾着袋を地元の女性たちの手で再現し、着物リメイク雑貨として販売していこうと考えました。ワークショップに集まった地元の女性たちとともに和裁の先生の指導を受けながら、手作りの巾着袋を「商品」として送り出せるよう、腕を磨きました。

2015年、引地さんは大きな決断をします。着物リメイク雑貨の製造販売をコミュニティ活動から切り離し、新たにつくった(株)WATALISへ移したのです。販売したお金で材料を仕入れ、作り手に製作費を支払い、経費をまかなう―。そんな当たり前の「ビジネス」として事業を続けるためでした。
「コミュニティ活動と並行して取り組んでいたので、着物リメイク雑貨の製造販売も、震災後の一時的な仕事づくりと見られていました。商談に赴くと、“きちんと供給できるのか”“納期は守れるのか”と信用を得る難しさに直面しました。“震災から時間が経っているので、もう扱わない”と言われたこともありました」。
“素人に会社経営は無理だ”と危ぶむ声もありましたが、引地さんはビジネスコンペに応募して受賞したり、ウェブ上に販売サイトを開設したりするなど積極的に道を拓きました。作り手さんに縫製を仕事として続けるかどうかを確認し、一層クォリティの向上に努めました。

(株)WATALISの事業は地元の友人知人や震災後につながった人々の応援を受け、着実に歩みを進めてきました。従業員は現在、作り手を含めて12人。アクセサリーや小物雑貨など商品の種類も増えました。WATALISは亘理町のワタリとお守りの意味のTALISMAN(タリスマン)を組み合わせた造語です。「商品を手に取っていただくことで亘理町に関心を持っていただければ嬉しいですね」。

故郷で生まれ故郷を伝える地場産品は、地域経済の担い手になります。「長く続けることで地元に少しでもお金が入り、活気が生まれる。そういう道を目指していきたい」と引地さんは願っています。

※株式会社WATALIS https://watalis.co.jp/



被災地はいま642019-03-20

「小さな人々にスポットを当てたい」 タガの柵(き)

多賀城市は、千年前の大津波が古文書(※)に記されている町です。貞観地震によるもので「千年に一度の大津波」という表現はここから来ています。東日本大震災では工業地帯や市街地を津波が襲いました。大きな製油所火災が起き、浸水域は町の3分の1に及びました。

「いま街を歩くと、本当に津波が来たの?と思うぐらい復興はした。でも小さなところに目を向けるとまだまだだと思う」。多賀城市でコミュニティカフェ「タガの柵」を運営する松村正子さんは、そう言います。

松村さんは震災後ふるさとの多賀城に戻り、母親が参加していたまちづくりの市民活動を手伝うなかで、地元の小さなお店や商品の作り手と知り合います。「震災で苦労して再建した話やこだわりを持ってモノを作っている話を聞き、その感動を地域住民や観光客にも届けたいと思ったんです」。

松村さんは地元の小さな店や作り手の思いが伝わる商品を販売できる場所をつくろうと考え、起業家育成の講座に通ってノウハウを身につけます。そうして2014年夏、JR陸前山王駅の目の前に「タガの柵」をオープンさせました。

「タガの柵」のユニークなところは、地元の店と連携した体験ツアーやイベントにも取り組んでいることです。商店街ツアー、味噌づくり体験、コーヒー教室などお店の人と交流しながら、多賀城の魅力を知る内容になっています。「復興の大きな歩みのもとでは目立たないが、震災を乗り越え、地道に歩んできた“小さな人々”にスポットを当てたい」という松村さんの願いが、そこには込められています。

震災を学ぶツアーも行なっています。「ツアーで回ったお店の人が自分たちでさえ震災を忘れることがあるのだから伝えていかなければ、と言っていた。時間が経ったから喋れるという人もいる。復興した街並みを見るだけでは伝わらない部分を伝えていくのも大切だと感じています」。

タガの柵には様々な人が集います。「多賀城で新しい活動をしたい、被災した地元に何か還元したいと考えている人たちを応援し、つなぐ場でありたい」。松村さんの考える多賀城の復興とは、そうした“小さな人々”が生き生きと活躍できる町になること。ふるさとへの思いをタガの柵に託して、発信を続けています。

※『日本三大実録』 869(貞観11)年、貞観地震による大津波が陸奥の国府多賀城まで押し寄せ、千人が死亡したと記されている。
タガの柵 http://taganoki.wixsite.com/home



被災地はいま632019-03-07

「復興の目撃者になってください」ホテル・エルファロ共同事業体

「震災で両親も旅館も失った。親の死が受け入れられず事あるごとに泣いていた。家族には涙を見せないようにしていたけど、娘たちが気付いて“お母さん泣いていいんだよ”と言ってくれたんです」。その言葉で、佐々木里子さん(ホテル・エルファロ共同事業体代表)は再び旅館を営む決意をしました。

女川町にあった旅館や民宿の半分以上が津波で被災したなか、佐々木さんは同業者3人とともに2012年12月、トレーラーハウス40台を活用してホテルをオープンさせました。ホテル名はスペイン語で灯台という意味の「エルファロ」にし、トレーラーの外壁は「がれきの中、花畑のような心和む空間をつくりたい」とパステルカラーに彩りました。

開業から数年、エルファロはボランティアや復旧工事関係者、視察団体などの宿泊施設として女川の復興に貢献してきました。最近は、ボランティアを機に親しくなった町民に会いに来たり、おながわ秋刀魚収穫祭などのイベントを楽しみに訪れたりするリピーターが増えたそうです。「もう、被災して悲しい町ではなく、楽しく遊びに来られる町になりつつあるんです」と佐々木さんは喜びます。

2017年8月、エルファロは女川駅のすぐそばに移転し、新たなスタートを切りました。
駅前にはレンガ道沿いに雑貨店や飲食店が並び、賑わいを見せています。「一歩外に出れば海があり、手作り体験のできる工房がある。さらに女川は水産業、商業、観光業の間に壁がないので、宿泊やアクティビティの企画を立てる時も“これ俺たち手伝えるよ”とすぐ応えてくれる」。
その環境を活かし、エルファロは、温泉、バーベキュー、ダイビング、タイル絵付け、石けん作りなど、地元の事業者たちと連携した様々なプランを提供しています。「町にお客様を呼ぶには“業”を超えてつながりあうことが大切だと実感しています」。

佐々木さんは語り部活動などでよく「復興の目撃者になってください」という話をします。「ページをめくるように町が変わっていく。その経過を見てください。遊んで帰った後、再び1年後に来ていただいて変化を感じてください。それが女川を元気にしてくれますし、支援になります」。
復興という“光”を観に、もうじき8年になる被災地へ。エルファロは名前の通り、観光客を迎え入れる灯台となっています。

※ホテル・エルファロ https://hotel-elfaro.com/



被災地はいま622019-01-17

「自分で選び、自分たちの手で解決する」石巻復興支援ネットワークやっぺす!

震災は、地元の女性たちが元々感じていた子育てのしづらさや就労の難しさに拍車をかけました。被災による心の傷がそこに加わり、回復をより難しくしました。
「自分の足で立ち上がるには、成功体験を積み、生きがいと仕事を取り戻していかなければ」と石巻復興支援ネットワークやっぺす!(以下やっぺす)の兼子佳恵さんは、震災直後、支援活動に携わるなかで痛切にそう感じました。

2011年5月NPO法人としてスタートしたやっぺすは、内職希望者と企業をつないだり、石巻発のアクセサリーのブランドを立ち上げながら、子育てしながら就労を目指す女性のためのスクールを開講しました。また、復旧・復興とともに変化する地域のニーズにあわせ、女性の起業支援スクール、孤立しがちな母親をサポートするスクール、女性たちの交流・学びの場となるカフェ開設など、数々の女性応援プロジェクトを展開してきました。さらに地元の人たちが趣味特技を活かして自己表現するプロジェクトをつくり、失われた自信を取り戻せるよう支援しました。17年からは貧困家庭やワンオペ育児で大変な思いをしている母親たちのためにママ子ども食堂も実施しています。

活動を始めて7年半。石巻エリアには、やっぺすの支援に背中を押されて自分の道を選んだ女性たちが何人もいます。「女性は、自分の人生なのに他者から“結婚しなさい、子どもを産みなさい”と指図を受けることが多い。でもそれでは楽しくないし、悔いも残る。私はやっぺすの活動から、人生で色々選択を迫られた時に、きちんと自分の判断で選択できる女性を送り出したいと思ったんです」。

それは、やっぺすが当初から掲げていた「主体的に地域づくりに関わる人材育成」という目標にもつながっています。「何年か先と思っていた地域課題が、震災で一気に噴出した。石巻に元々あった課題なのだから、住民が自分たちの手で解決していかないといけない。そのためには人材育成が急務だと思い、取り組んできた」と兼子さんは振り返ります。

18年10月、やっぺすは事務所を移転しました。新事務所には商品展示スペースやイベント・セミナーを開催できる大・小のホールなど様々な機能が集約されています。「つながることで生きがいが生まれ、生きがいが生業になり、生業がきちんとビジネスになっていく。それが循環する拠点にしていきたい」。

石巻の街が住民の手でより良い方へ変わっていく。その担い手を育て、支えていくために、やっぺすの活動は続きます。

※石巻復興支援ネットワークやっぺす!  http://yappesu.jp/



被災地はいま612019-01-16

縁をつないでいく南三陸町の商店街

2012年に仮設商店街として営業を始め、昨年場所を移転し本設商店街として新たなスタートを切った南三陸さんさん商店街(志津川地区)。オープンから1年5カ月目の2018年8月、来場者が100万人を突破しました。本設移転の前に抱いていた様々な不安をかき消すかのように、商店街には晴れやかな気分が広がっています。

㈱南三陸まちづくり未来(以下まちづくり未来)の菊地眞人常務は、「たくさんのメディアが取材に来て伝えてくれた。さらに震災直後から支援してくださっていた方々が友人や親せきを連れて来たり、中高生が体験学習で訪れたり、旅行会社が商店街に立ち寄るツアーを企画したり、多くの縁のおかげで、短い期間で100万人ものお客様をお迎えできた」と話します。

ハマーレ歌津(歌津地区)も、復興支援で来ていた人たちが引き続き観光で訪れています。現在道路工事のためアクセスが分かりにくくなっていますが、まちづくり未来では看板を設置して商店街への誘導を図ろうと考えています。
海・山・里の豊かな自然に恵まれた南三陸町は、震災前から観光交流に力を入れていました。震災以降は、商店街が町のメイン施設として観光交流をけん引しています。人口減少が課題となっているなか、交流人口の拡大を担う商店街には大きな期待が寄せられています。

「さんさん商店街とハマーレ歌津の2カ所に寄っていただいたお客様に何か特典を差し上げるなど、色々企画を練っているところです」と菊地さん。ホームページやツイッター、会員向けメールマガジンなどを駆使し、情報を発信しています。またミニコンサートなど、来場者の持ち込み企画イベントが多いのも、2つの商店街の特徴です。それだけに菊地さんはじめ商店街の人たちには「支援していただいた方々やお客様との縁を大切にしていかなければならない」との思いが強くあります。

2、3年後にはさんさん商店街のそばに道の駅ができる予定です。旧防災庁舎を含む復興祈念公園の開園も控えています。「新しい施設ができることで人の流れも変わるでしょう。その時、さんさん商店街とハマーレ歌津はどういう役割を担うべきか、色々提案をしていこうと考えています」と菊地さんは言います。

震災時の困難を大勢の人々と縁をつなぐことで乗り越えてきた南三陸町の商店街。これからも縁を大切にしながら、変化する町と時代に対応していこうとしています。