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災害支援

つながろう co-op アクション

活動報告

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2017-11-21 被災地のいま45
2017-11-20 被災地のいま44
2017-11-17 被災地のいま43
2017-04-10 被災地のいま42
2017-03-22 被災地のいま41

被災地のいま452017-11-21

地域に、人が集まり、仲間が助け合える場をつくる−戸倉漁師の会

宮城県沿岸の漁港142ヶ所はすべて震災で甚大な被害を受けました。とくに漁港と集落が一体となった地域は生業だけでなく暮らしの基盤も失い、住民離散による故郷消滅の危機にも見舞われました。

南三陸町戸倉は、リアス式海岸沿いに水戸辺、波伝谷などの集落と中小の漁港が点在する地区です。震災で漁港も養殖設備も壊れ、多くの漁業者が船と家屋を失いました。

その戸倉地区に2年前、新鮮な海の幸や山の幸を提供する「感謝祭」の開催とオリジナルの商品づくりに取り組む漁業者のグループが誕生しました。「戸倉漁師の会」です。
会長の松岡孝一さんは「震災を経て戸倉の漁師たちの結束はより強くなった」と言います。戸倉には、同じ町内の志津川や歌津のように人が集まる商店街も復興市もありませんでした。そこで全国から寄せられた支援への感謝を込めて、月1回、第2日曜日に波伝谷漁港で“海あり、山あり、美味いもんあり”の「戸倉漁師の会 感謝祭」を行なうことにしたのです。感謝祭は今年の5月で15回を数えます。毎回、石巻や仙台からの観光客はもちろん、他の町へ移住した人たちも戻ってきて、故郷の賑わいを体験していきます。

また漁業の6次産業化を目指し、カキを酒粕で漬けた「ほろ酔い牡蠣」やヒジキのシバ漬けなど新たな商品開発にも挑んでいます。
震災から6年、高台への集団移転が終わり、港湾施設の復旧も進みました。一方、ホヤが輸出できずカキも思ったほど価格が上がらない、後継者が不足しているなど、まだ苦労は続きます。
「漁師の会のメンバーは現在10数名。戸倉には100人前後の漁業者がいる。イベント会場などの課題はあるが仲間を増やしていきたい」と松岡さん。「海に出られなくなった年配の漁師を、仲間の若い漁師が手伝うことができる」と期待します。村岡賢一さんも「楽しみながら仕事ができるような仲間づくり、地域づくりが大事」と話します。
「漁業も暮らしも、本当に大変なのはこれから」と松岡さんが言うように、被災地の復興はまさにこれからが正念場です。 





被災地のいま442017-11-20

人口が減っても、経済が回り、選ばれる町を目指す

人口が集中する都市部。なかには被災した町を故郷に持つ人もいることでしょう。 震災後、沿岸部の町では数千人規模で住民が流出するなど急激な人口減少が進んでいます。被災市町にとって、復興の担い手となる住民の流出は大きな課題です。

女川町は震災前に約1万人だった人口が約6千7百人にまで減少しました。今後日本全体で人口減少が進むなかで、町は厳しい現実を冷静にとらえ、「人口減少下においても賑わいと活力を維持し続けられる町を目指す」ことを総合戦略(※)に掲げています。

そのような人口減少下について、「活動人口の創出」や「新産業の創出」で町と連携し、事業を進めているのがNPO法人アスヘノキボウです。アスヘノキボウの後藤大輝さんは「“活動人口の創出”は、外からビジネスや文化活動で入ってくる人を増やして町を盛り上げていこうとするまちづくり戦略。女川が縁で新しい関係が生まれ、女川に関わる人が増える。その環境をつくっていく」と話します。 例えば「お試し移住プログラム」は、5日間〜30日間、女川のシェアハウスに滞在し、暮らしを体験するプログラムです。昨年度は学生、フリーランサー、会社員、経営者など88人の参加がありました。参加者は町の人と話し、一緒にご飯を食べ、日々復興していく様子を見ながら、長い時間を町で過ごします。「“自分の人生のなかでも、かなり濃い時間を過ごせた”と言って帰った人もいました」(後藤さん)。

また、「創業本気プログラム」からはすでにレストランや手造り石けん工房などの事業が道を拓いています。「地方で魅力的な仕事をつくる人を増やして、Iターン・Uターン者の流入を促したい」と後藤さん。「人口減少は日本全体で始まっている。人口が減ってもその地域の経済が回り、文化がつながっていくことが大事。女川町でそのモデルをつくることができれば」と将来に目を向けます。
人口減少は税収減や過疎化をもたらします。復興の苦労が続くなかで人の活力をどう生みだしていくか、被災した町それぞれが、厳しい現実と向き合いながら前を向いて歩んでいます。

※「女川町まち・ひと・しごと創生総合戦略」(平成28年7月策定)





被災地のいま432017-11-17

住民の自治で新しい故郷をつくる


防災集団移転地や復興公営住宅は、震災で家と故郷を失った人たちの生活再生の場所です。

東松島市あおい地区は580世帯、約1800人が暮らす防災集団移転地です。大曲浜や野蒜(のびる)など様々な地域から移転した人たちが「日本一のまち」を目指し、コミュニティ活動を進めています。

同地区会会長の小野竹一さんは、「日本一のまち」の意味を「子孫に喜ばれるまち、亡くなった方の魂が帰ってこれるまち、支援してくださった全国の皆さんに“見に来てください”と言えるまち」と話します。そのため2012年からまちづくり整備協議会を立ち上げ、特色ある公園や集会所の建設、ペットとの共生などを実現してきました。

協議会の役員は、地域の仕来り(しきたり)やルールなど様々な声を反映できるよう、以前住んでいた各行政区から必ず1人は選出するようにしました。1丁目・2丁目・3丁目の区割りは、高齢化率を踏まえ、復興公営住宅と自力再建地区の組み合わせにしました。自力再建地区に多い若い世代が、復興公営住宅に多い高齢者と一緒に自治会活動を行なうことで自然な見守りができると考えたからです。

また、あおい地区会として「見守り部会」を設け、お茶会や訪問見守りなど高齢者の状態に応じたサポートを行なうことにしました。高齢者の健康維持のために「あおい農園」設置の計画もあります。

小野さんは東松島市に「住民による高齢者支援を地区会に業務委託してほしい」と要望しています。「NPO等が委託を受けて活動している例もあるが、いつかは撤退する。支援のノウハウも地元に残らない。見守りは介護予防、ひいては行政のコスト削減につながるし、業務委託は自治会の活力にもなる。市と社会福祉協議会、あおい地区会の三位一体の取り組みができれば」と話します。

防災集団移転による新しいまちづくりは、どこも始まったばかり。あおい地区と同様に多様な課題を一つ一つ乗り越えていかなければなりません。自治会の担い手がいるか、行政とうまく連携できるか、交流や支え合いをどう生み出していくか。失った故郷に変わる新しい故郷をつくるための取り組みが続きます。





被災地のいま422017-04-10

人とひとが支えあって孤立を防ぐ
 
「災害公営住宅の自治会活動には、既存の自治会、地域のお世話役、NPOなど“人を支える杖”があることが大事です」。
 
気仙沼市社会福祉協議会ボランティアセンターの皆さんがそう言って例に挙げたのが、南郷三区自治会です。南郷三区自治会設立には、南郷地区に元々あった自治会組織の協力がありました。住民同士のお茶会をきっかけに高齢者のサロンも生まれています。
 
藤原武寛さん(南郷三区自治会会長)は住宅内を“支える杖”の一人です。
「入居者の6割近くが65歳以上の高齢者。自治会では高齢者の孤立防止と住民同士の交流のため、月1回イベントを開催していますが健康上の理由や気持ちの問題で参加しない方もいます」。
藤原さんは時間を見つけてはそうした住民のもとを訪問するようにしています。「足を向けると2時間でも3時間でも話し続ける。悩みや困り事を誰かに聴いてほしくて、待っているんです」。また各フロアの班長さんたちは、郵便物や新聞が溜まったままの家がないかどうか、気を付けて見るようにしています。
 
住民同士のつながりは徐々に深まりつつありますが、新たな課題も浮上してきています。
「重いストレスを抱えた方や震災と避難のショックで精神的に参っている方が増えているような気がします」。今年の3月11日で震災発生から6年が経ちますが、実際の復興に心が追いついていない人は、まだ大勢いるのです。「深夜の大声や騒音などのトラブルも発生している。今後は家賃の被災者特例が無くなることで経済的に困窮する世帯も出てくるでしょうから、それも心配です」。
 
やっと落ち着く場所を手に入れた人たちが、そこで安心して暮らし続けていくためにどんな支えが必要か、これからも考えていかなければなりません。




被災地のいま412017-03-22

震災で親を亡くした子どもと家族に寄り添う
 
宮城県では1,066人の子どもが震災で親を亡くしました(※)。津波の後で親の死を知った時の絶望、未だ行方不明の親を想う辛さは、想像に余りあります。
 
あしなが育英会は2014年、東日本大震災で親を亡くした子どもとその家族が集う「レインボーハウス」を仙台、石巻、陸前高田に開設しました。
レインボーハウスは阪神・淡路大震災をきっかけに誕生した心のケアの活動拠点です。東日本大震災が起きた時、若宮紀章さん(あしなが育英会東北事務所)は「東北にもすぐレインボーハウスが必要になる」と思ったそうです。
 
石巻レインボーハウスの開設準備中、こんなことがありました。どんな施設を建てたいか、子どもたちに工作で表現してもらったところ、母を亡くした小学1年生の子が部屋の片隅にお墓を作ったのです。お墓の中には紙の人形が入っていました。
 
「その子なりの感情表現だったのだと思う。亡くなった家族の話は学校でも家庭でも話しにくい。成長とともに自分の気持ちを言葉で表現できるようになるが、神戸の震災で親を亡くした子たちは“今も簡単には言えない複雑な感情がある”と口にする。東北の子たちも同じ辛さを抱えるだろう。それだけに長いスパンでの寄り添いが大事だ」と若宮さんは言います。
 
また「心の内側は6年前の3月11日からあまり変わっていないんじゃないか」と感じる時もあるそうです。「“変わってない”部分は、繊細で複雑で困難なことが多い」と言います。それを吐き出すことなく内に溜めていけば、心は疲弊する一方でしょう。「レインボーハウスで同じように家族を亡くした人たちと語り合い、自分の気持ちを表現することで前に進むきっかけを見出す。そのお手伝いができれば」というのがレインボーハウスに携わる人たちの共通の思いです。
 
震災遺児・孤児を支援するため行政をはじめ各支援団体がさまざまな活動を行なっています。レインボーハウスはその一角を担うものですが県内の震災遺児・孤児すべてとつながるのは困難です。子どもが望めばいつも手が差し伸べられる環境をつくるのは大人の責任です。そのために何ができるか、これからも考えていかなければなりません。
 
※宮城県「本県の震災遺児・孤児の状況」(平成28年7月31日現在)