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災害支援

つながろう co-op アクション

活動報告

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2019-03-07 被災地はいま63
2019-01-17 被災地はいま62
2019-01-16 被災地はいま61
2018-12-03 被災地のいま60
2018-11-05 被災地のいま59

被災地はいま632019-03-07

「復興の目撃者になってください」ホテル・エルファロ共同事業体

「震災で両親も旅館も失った。親の死が受け入れられず事あるごとに泣いていた。家族には涙を見せないようにしていたけど、娘たちが気付いて“お母さん泣いていいんだよ”と言ってくれたんです」。その言葉で、佐々木里子さん(ホテル・エルファロ共同事業体代表)は再び旅館を営む決意をしました。

女川町にあった旅館や民宿の半分以上が津波で被災したなか、佐々木さんは同業者3人とともに2012年12月、トレーラーハウス40台を活用してホテルをオープンさせました。ホテル名はスペイン語で灯台という意味の「エルファロ」にし、トレーラーの外壁は「がれきの中、花畑のような心和む空間をつくりたい」とパステルカラーに彩りました。

開業から数年、エルファロはボランティアや復旧工事関係者、視察団体などの宿泊施設として女川の復興に貢献してきました。最近は、ボランティアを機に親しくなった町民に会いに来たり、おながわ秋刀魚収穫祭などのイベントを楽しみに訪れたりするリピーターが増えたそうです。「もう、被災して悲しい町ではなく、楽しく遊びに来られる町になりつつあるんです」と佐々木さんは喜びます。

2017年8月、エルファロは女川駅のすぐそばに移転し、新たなスタートを切りました。
駅前にはレンガ道沿いに雑貨店や飲食店が並び、賑わいを見せています。「一歩外に出れば海があり、手作り体験のできる工房がある。さらに女川は水産業、商業、観光業の間に壁がないので、宿泊やアクティビティの企画を立てる時も“これ俺たち手伝えるよ”とすぐ応えてくれる」。
その環境を活かし、エルファロは、温泉、バーベキュー、ダイビング、タイル絵付け、石けん作りなど、地元の事業者たちと連携した様々なプランを提供しています。「町にお客様を呼ぶには“業”を超えてつながりあうことが大切だと実感しています」。

佐々木さんは語り部活動などでよく「復興の目撃者になってください」という話をします。「ページをめくるように町が変わっていく。その経過を見てください。遊んで帰った後、再び1年後に来ていただいて変化を感じてください。それが女川を元気にしてくれますし、支援になります」。
復興という“光”を観に、もうじき8年になる被災地へ。エルファロは名前の通り、観光客を迎え入れる灯台となっています。

※ホテル・エルファロ https://hotel-elfaro.com/



被災地はいま622019-01-17

「自分で選び、自分たちの手で解決する」石巻復興支援ネットワークやっぺす!

震災は、地元の女性たちが元々感じていた子育てのしづらさや就労の難しさに拍車をかけました。被災による心の傷がそこに加わり、回復をより難しくしました。
「自分の足で立ち上がるには、成功体験を積み、生きがいと仕事を取り戻していかなければ」と石巻復興支援ネットワークやっぺす!(以下やっぺす)の兼子佳恵さんは、震災直後、支援活動に携わるなかで痛切にそう感じました。

2011年5月NPO法人としてスタートしたやっぺすは、内職希望者と企業をつないだり、石巻発のアクセサリーのブランドを立ち上げながら、子育てしながら就労を目指す女性のためのスクールを開講しました。また、復旧・復興とともに変化する地域のニーズにあわせ、女性の起業支援スクール、孤立しがちな母親をサポートするスクール、女性たちの交流・学びの場となるカフェ開設など、数々の女性応援プロジェクトを展開してきました。さらに地元の人たちが趣味特技を活かして自己表現するプロジェクトをつくり、失われた自信を取り戻せるよう支援しました。17年からは貧困家庭やワンオペ育児で大変な思いをしている母親たちのためにママ子ども食堂も実施しています。

活動を始めて7年半。石巻エリアには、やっぺすの支援に背中を押されて自分の道を選んだ女性たちが何人もいます。「女性は、自分の人生なのに他者から“結婚しなさい、子どもを産みなさい”と指図を受けることが多い。でもそれでは楽しくないし、悔いも残る。私はやっぺすの活動から、人生で色々選択を迫られた時に、きちんと自分の判断で選択できる女性を送り出したいと思ったんです」。

それは、やっぺすが当初から掲げていた「主体的に地域づくりに関わる人材育成」という目標にもつながっています。「何年か先と思っていた地域課題が、震災で一気に噴出した。石巻に元々あった課題なのだから、住民が自分たちの手で解決していかないといけない。そのためには人材育成が急務だと思い、取り組んできた」と兼子さんは振り返ります。

18年10月、やっぺすは事務所を移転しました。新事務所には商品展示スペースやイベント・セミナーを開催できる大・小のホールなど様々な機能が集約されています。「つながることで生きがいが生まれ、生きがいが生業になり、生業がきちんとビジネスになっていく。それが循環する拠点にしていきたい」。

石巻の街が住民の手でより良い方へ変わっていく。その担い手を育て、支えていくために、やっぺすの活動は続きます。

※石巻復興支援ネットワークやっぺす!  http://yappesu.jp/



被災地はいま612019-01-16

縁をつないでいく南三陸町の商店街

2012年に仮設商店街として営業を始め、昨年場所を移転し本設商店街として新たなスタートを切った南三陸さんさん商店街(志津川地区)。オープンから1年5カ月目の2018年8月、来場者が100万人を突破しました。本設移転の前に抱いていた様々な不安をかき消すかのように、商店街には晴れやかな気分が広がっています。

㈱南三陸まちづくり未来(以下まちづくり未来)の菊地眞人常務は、「たくさんのメディアが取材に来て伝えてくれた。さらに震災直後から支援してくださっていた方々が友人や親せきを連れて来たり、中高生が体験学習で訪れたり、旅行会社が商店街に立ち寄るツアーを企画したり、多くの縁のおかげで、短い期間で100万人ものお客様をお迎えできた」と話します。

ハマーレ歌津(歌津地区)も、復興支援で来ていた人たちが引き続き観光で訪れています。現在道路工事のためアクセスが分かりにくくなっていますが、まちづくり未来では看板を設置して商店街への誘導を図ろうと考えています。
海・山・里の豊かな自然に恵まれた南三陸町は、震災前から観光交流に力を入れていました。震災以降は、商店街が町のメイン施設として観光交流をけん引しています。人口減少が課題となっているなか、交流人口の拡大を担う商店街には大きな期待が寄せられています。

「さんさん商店街とハマーレ歌津の2カ所に寄っていただいたお客様に何か特典を差し上げるなど、色々企画を練っているところです」と菊地さん。ホームページやツイッター、会員向けメールマガジンなどを駆使し、情報を発信しています。またミニコンサートなど、来場者の持ち込み企画イベントが多いのも、2つの商店街の特徴です。それだけに菊地さんはじめ商店街の人たちには「支援していただいた方々やお客様との縁を大切にしていかなければならない」との思いが強くあります。

2、3年後にはさんさん商店街のそばに道の駅ができる予定です。旧防災庁舎を含む復興祈念公園の開園も控えています。「新しい施設ができることで人の流れも変わるでしょう。その時、さんさん商店街とハマーレ歌津はどういう役割を担うべきか、色々提案をしていこうと考えています」と菊地さんは言います。

震災時の困難を大勢の人々と縁をつなぐことで乗り越えてきた南三陸町の商店街。これからも縁を大切にしながら、変化する町と時代に対応していこうとしています。



被災地のいま602018-12-03

「食べていただくことが石巻の水産復興につながる」

石巻の水産業者たちが、震災後、石巻市水産復興会議という組織を立ち上げ、一丸となって、真っ先に行なったのは冷蔵庫にあった製品の廃棄処理でした。各社から人が出て“今日はこの会社の冷蔵庫、明日はこの会社の冷蔵庫”と振り分けし、3カ月かけて処理しました。

「海があり、船があれば漁はできる。仮設の魚市場が建てば水揚げができる。しかし加工場がなければ出荷はできない。そこで加工場の冷蔵庫に残っていた製品を全部捨て、受け入れ環境を整えることから始めたんです」。渡波水産加工業協同組合の木村安之専務理事は、当時をそう振り返ります。

また渡波水産加工業協同組合は、国の補助を受けてすぐに冷凍冷蔵施設と製氷施設を復旧させ、組合員(水産加工業者)が氷の手当てや冷凍冷蔵庫の保管を心配することなく事業再開に打ち込めるようにしました。

一方で壁にも突き当たりました。「消費者の方々に宮城の水産物をたくさん食べてもらわなければならないのに、原発事故による風評被害が起きて不安だった」と話します。さらに組合員の間では施設整備に伴う二重ローン問題も浮上し、不安は増大しました。

しかし震災から3年後に組合の青年部が活動を再開。交流する中で様々な意見が出てくるようになりました。木村さんはそこに希望を見ます。「水産加工は練り製品や塩蔵品など業種が多様で、他の工場の実情を知らない。だが青年部の活動で工場を行き来すれば作業内容なども自然とオープンになる。それが互いに刺激になる。議論が生まれ、行動に移していくこともできるようになった」。

同組合は食育などのPR活動に取り組む一方で、消費者の声を聴きに行くことを今後の課題にしています。

「消費者の方々が何を求めているかを知り、さらに交流を通して我々の製品の良さを伝えていきたい」と木村さん。「消費者の方々に石巻の水産加工品をたくさん食べていただくことが復興につながる。PR活動と交流に取り組み、組合員の経営に貢献していきます」。

同組合の組合員は現在36社。その思いを反映した運営と新たな試みとのバランスを取りながら、復興の道をたどっています。




被災地のいま592018-11-05

仙台湾の豊かな漁場を生業の場に、浜の食文化を守る

仙台湾を漁場に持つ亘理荒浜漁港には、ヒラメやカレイ、アナゴなど多種多様な魚介が水揚げされます。震災で漁船の数は半減しましたが、2011年12月には魚市場の修理がほぼ終わり、セリも再開しました。

しかし直後の2012年4月、東京電力福島第一原発事故による放射性物質の基準値変更で、ヒラメやカレイは出荷できなくなりました。「世界レベルよりずっと厳しい水準の基準値になり、検査結果が出る度、一喜一憂した」と、宮城県漁協仙南支所の橋元勇支所長は当時を振り返ります。

出荷規制は1年後に一部解除され、解除されたものから逐次、市場に出していきましたが、今度は風評被害に見舞われました。「買受人さんたちへの販売が振るわない時期もあったし、買受人さんや出荷者さんが取引先から産地証明を求められたりしたこともあった。実際に小売店さんなどと接する人たちは苦労したと思う」。

今は風評被害も収まり、亘理荒浜のブランド魚であるヒラメやカレイの多くが関東や近畿に出荷されていきます。2014年10月には漁港の目の前に産直の「鳥の海ふれあい市場」がオープンし、観光客や地元の人で賑わうようになりました。

その賑わいに一役買っているのが仙南支所婦人部の「浜っこかあちゃん市」です。もともと婦人部では安価な魚をさつま揚げなどに加工して販売していました。震災で人も施設も失いましたが、浜に活気を取り戻すため復活を果たしました。「住民はみな災害公営住宅や街に移転して、浜のコミュニティがバラバラになってしまった。だが浜っこかあちゃん市に来ると懐かしい顔に出会える。良い交流の場になっている」と橋元さんは喜びます。

震災後、新たに漁業を始めた人もいるという仙南支所。燃料や資材の高騰など漁業経営を取り巻く環境は厳しいのですが、橋元さんが「食べ物なら春はアサリ飯、夏はアナゴ飯、秋はハラコ飯、冬から早春にかけてはホッキ飯がある」と自慢するように、亘理荒浜には豊かな魚食文化があります。その豊かな海を生業の場に、浜の人たちの奮闘は続きます。