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2015-12-08 | 被災地のいま27 |
2015-11-18 | 被災地のいま26 |
2015-10-13 | 被災地のいま25 |
2015-10-12 | 被災地のいま24 |
2015-08-20 | 被災地のいま23 |
被災地のいま272015-12-08
〜地域再生に向けて3〜
漁業者の経営安定のため販売強化に取組む
「復興の歩みは一律ではなく、浜(地域)や品目ごとに異なる」。宮城県漁業協同組合の丹野一雄会長と阿部誠理事は、現在の状況をそう話します。
魚市場の再建などで全体的に活気を取り戻しつつある一方、漁港工事や住宅再建の遅れが漁業者の志気に影を落としていること、ワカメや銀ザケの水揚げはほぼ震災前の水準に戻ったが、カキ・ノリ・ホタテは資金などの問題で回復が懸念されていること、生産者の減少で人手不足に直面している漁場もあるなど、震災から4年8ヶ月を経たいまも難題が山積しています。そうしたなかでも養殖施設や共同漁船などの整備は着実に進み、ほぼ完ぺきな状態で完了。事業継続に意欲を燃やす生産者の背中を押しました。
南三陸町志津川の生産者は震災後、密植を避けたカキ養殖に挑戦。養殖版“海のエコラベル”として知られる「ASC(水産養殖管理協議会)」の国際認証取得を目指しています。奮闘する生産者を支援するため、宮城県漁協はこれまで以上に販売強化に取り組んでいます。「従来の共同販売の仕組みを活かしながらも、宮城の“さかな”を積極的にPRし、外国も視野に販路を求めていきたい」と阿部さん。ネットを活用した電子商取引「おらほのカキ市場」、東京での冬季限定カキ小屋、香港やシンガポールでの三陸フェアなどPR・販路開拓の取り組みは多岐にわたります。海外との競合など今後も困難は予測されますが、丹野会長は「個々の経営安定が一番。そうすれば自ずと漁業に人は定着する」と強い信念を見せます。
水産業の復興は地域再生の要です。歯を食いしばって震災を乗り越えようとする漁業者と漁協の二人三脚はこれからも続きます。
被災地のいま262015-11-18
〜地域再生に向けて2〜
また来たい、また住みたい — 交流観光で南三陸町ファンを拡大
被災した沿岸部は食や海遊びの観光エリアでもあります。2014年の沿岸部の観光客は483万人で、まだ震災前の6割弱に留まり、以前の活力を取り戻すには至っていません。
南三陸町は震災前から教育旅行などの観光事業に取り組んできた経緯から、2014年観光復興推進計画(観光特区)の認定を受けました。観光特区のテーマは「南三陸町〜また来たい、また住みたい〜地域づくり」です。「また住みたい」のフレーズには、観光事業による地域経済の活性化・雇用の創出を通じて、町外へ避難した住民が“戻ってきたい”、若者が“定住したい”と思えるような魅力あるまちをつくっていこうという強い意志が込められています。実際、震災を機にまちへ移住してきたボランティアの若者や故郷のために働きたいと戻ってきた住民がいて、良い先例となっています。
「観光を通じて海、山、人が一体となった南三陸町の魅力を発信していきたい」と南三陸町産業振興課の菅原大樹さん。漁業体験、林業体験、民泊体験などまちの観光プログラムはすべて漁業者や農家をはじめ地元住民の手によるもの。「あの元気な漁師さんにまた会いたい、そう言って再訪してくれるような交流がこの町にはあります」。
震災後、南三陸町には延べ10万人ものボランティアが訪れました。まちではその「縁」を地域再生の活力につなげていくため、「南三陸応縁団」活動をスタート。ボランティアに来てくれた人たちに応縁団に参加してもらい、町民との交流を通じて南三陸町ファンを増やしていこうと考えています。「ボランティアに来てくださった方々の力がなければここまでくることはできなかった。そのご縁をずっとつないでいきたい」。
ボランティアで訪れたまちを今度は交流のために再訪する、そんな新しい観光のあり方が、被災した地域の復興を支える力になります。
被災地のいま252015-10-13
〜地域再生に向けて〜
時間の壁と向き合いながら進めるまちづくり
被災した市町では地域再生に向けた新たなまちづくりが進んでいます。どの地域も、人口減少問題を抱えるなか、個々の地勢や地域資源を活かした計画を策定し定住を呼びかけているのが特徴です。
津波で家屋の9割が被災した女川町は、山を切り取って高台に宅地を整備し、造成で出た約700万㎥の土を平地に盛って新たな市街地をつくっています。嵩上げした国道が防潮堤の役割を担い、中心部には役場や学校、病院、商店、観光施設などが集約。宅地をほぼ2キロ圏内の高台に分散配置することで、景観と安全、生活の利便性を確保しています。ことし3月には女川駅と女川温泉「ゆぽっぽ」の営業開始を機に、「まちびらき」を行ないました。
「まち」の様子がたびたび報道されることもあり、女川町は復興が早いと見られています。しかし復興の指標の一つである災害公営住宅完了戸数は「4年半、一生懸命取り組み続けてきてもまだ3割程度」と、我妻賢一さん(女川町復興推進課課長)は焦燥感をにじませます。山の掘削、土の運搬、盛土と一連の造成作業に時間がかかるためですが、宅地の完成を待ちきれず「まち」を出ていく住民もいます。震災前は1万人強だった人口は現在約7,000人にまで減少しました。
高台移転や利便性の高い市街地づくりは住民に「希望を持っていただくためのもの」ですが、時間の壁が立ちはだかります。
さらに「街並みだけでは定住してもらえない。そこに心がないと…」と我妻さんは言います。そこで、住民のなかから“まちの心をつくる”様々なリーダーが育っていくよう、女川町は「まち活」プロジェクトに取り組んでいます。また高台の住宅地では早い段階から「まちづくり」参加の機会を設け、コミュニティ形成を図っています。
「女川は面白いまちになると興味を持ってもらい、住民同士の絆が深まれば、人口流出にも少しは歯止めがきくのでは」と我妻さんは期待を口にします。
「まちづくり」も「人づくり」も緒に就いたばかり。被災市町は時間の壁と向き合いながらこれからも厳しい道を歩いていかなければなりません。
被災地のいま242015-10-12
疲弊する被災者の転居を支援
宮城県内では、みなし仮設住宅、プレハブ仮設住宅、その他の仮設住宅合わせて24,829世帯が仮設住宅に入居していますが、その方々が仮設住宅を出なければならない日(退去日)が近づいています。早い市町では今年から来年にかけて、それぞれの契約満了日までに転居していかなければなりません。
しかし中には転居の見通しが立たない被災者もいます。引越し費用や家賃を払えない、税金を滞納していたため公営住宅への入居資格がない、アパートの保証人になってくれる近親者がいないなど、理由は様々ですが、その多くは低所得者・高齢者などの社会的弱者で震災前からあった破たんの芽がたまたま震災で顕在化したと見られています。
宮城県は「宮城県被災者転居支援センター」を開設し、支援の手が届きにくいみなし仮設住宅(約1万世帯)入居者を中心に転居困難者支援の取り組みを開始しました。県の委託を受けた一般社団法人パーソナルサポートセンターが被災者を訪問し、「引っ越し費用が無い」「みなし仮設にこのまま住みたいが家賃が心配」などの相談を受けながら、新しい生活を築く方法を一緒に考えています。
宮城県被災者転居支援センター長の高木秀明さんは、これまで仮設住宅の見守り活動などを続けてきた経験から「難しい支援事例が多いのではないか」と懸念します。
実際、転居困難者と話をすると、多額の負債や家族間のあつれきなどの問題が判明することがあります。再建をあきらめた被災者や転居費用以前に生活費がない生活困窮の被災者もいます。生活に疲れ、新しい人生を開く気力さえ無いのかも知れません。それでもセンターでは、被災者本人や近親者の協力も求めながら、あらゆる解決の道を探ります。
「転居を促す立場なので歓迎されないこともありますが、仮設住宅からの“追い出し屋”になるつもりはありません」。センターの使命は転居の見通しが立たないほど疲弊している被災者の生活再建を、伴走型で支えていくこと。「転居困難者がどれぐらい出るかは退去時期が迫らないと正確には分かりませんが、どんな事例にも対応できるように態勢を整えておきたい」と話してくれました。
※世帯数は2015年7月31日現在のデータ(宮城県)
被災地のいま232015-08-20
あれだけの災害、子どもの心に影響がないわけがない
沿岸部の子どもたちは、4年前と比べると大分落ち着きを取り戻しています。しかしそれは表面上のことで、心の問題が無くなったわけではありません。むしろ時間が経つにつれて今まで潜在化していたことが顕在化し複雑化していくため、長期的に見守っていく必要があると言われています。
宮城県子ども総合センター心のケア推進班は、震災で傷ついた子どもの心のケアに適切に対応できるよう、沿岸部の教員や保育士等支援者への支援を行っています。
次長(班長)の佐藤尚美さんは、「津波の避難訓練一つとっても学校では子どもや保護者への配慮の仕方などで葛藤が生じますが、児童精神科医や心理士が助言を行うことで先生方も安心して子どもに向き合える」と教育現場への支援の必要性について話します。
また教員は、不登校や集中力の欠如など表に出てくる問題が震災の影響によるものか、発達や生育環境などに起因するものか、判別が難しい状況にも直面します。
「子どもたちの問題行動については、多くの先生が“震災の影響かどうかは分からないが”と慎重に発言する」と佐藤さん。予断を持たずに子どもを見ようと努力する先生方の姿が浮かびます。沿岸部の教員や保育士は、そうした複雑な環境のもとで子どものサインに気付く見守りの眼を養っていかなければなりません。
いまも仮設住宅で不自由な暮らしをしている、経済的に余裕がない、家並みが消えた街を見ながらスクールバスで通学する、そんな子どもたちが被災地にはまだ大勢います。安定した生活を薬に心の回復を遂げた子どもがいる一方で、力尽きそうになっている子どももいます。ダメージが蓄積している恐れがあります。
「あれだけの災害だったのだから、影響がないわけがない」という考えを前提に、佐藤さんたち心のケア推進班は教員等支援者と考えを共有し、学校などへの訪問相談を通じて子どもの心のケアの取り組みを進めています。